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「諸法実相」の心―現実変革への限りなき挑戦


  この章の冒頭では仏法者の平和への心構え、姿勢についてお話しされています。結論として、日蓮仏法はどこまでも現実変革の宗教であり、どんな絶望的な状況であっても、人類を幸福の方向、平和の方向へと変え行く戦いをしていくべきだと言われます。

 決して絶望や悲観、不安を煽る宗教ではない。人類を破滅へと向かわせる戦争を起こすのも人間であり、その人間に潜む無明の生命と戦い、人間不信から人間尊重の共和の世界を建設していく・・・仏と魔(無明)との間断なき闘争が仏法者の使命です。そしてそこに希望を抱き、争いや分断から平和、幸福へと現実変革の流れを作りゆくのが「立正安国」の戦いであると思います。

池田先生:大聖人の仏法はどこまでも平和の仏法です。全世界を平和に!それこそ大聖人が目指されたものなのです。そのために「立正」を、そのために「法華経」を叫ばれたのです。(中略)この大聖人の御心を受け継いで、全人類の幸福のために学会は立ち上がったのです。

 そしてその現実変革を可能ならしめるのが「諸法実相」の原理だと言われています。

 私たちは日々方便品を読誦しています。そこには諸法実相十如是の文があります。そこに説かれている法理を理解することはとても難しいことです。言葉では多少理解できても、生命で理解するのは本当に難解です。せめて仏の法理が何のためにあるのか、少なくともその点だけは心得ていきたいものです。

池田先生:仏が出現したのはありとあらゆる人を仏にするためである。仏になることこそ人生の根本目的であり、その他の目標は方便の低い目標に過ぎないことを教えたのです。いわんや名聞名利など、人生の真の目的ではない。「開三顕一」は「仏の真意を」を明かしたものであり、同時に「人生の真の目的を明かした」のです。

(中略)大聖人は「仏略して一念三千・心中の本懐を宣べ給う」(御書208p)と仰せです。それが諸法実相・十如是の文です。また「一切衆生皆成仏道の根源と申すも只この諸法実相の四字より外は全くなきなり」(御書1139p)と述べられている。すべての人を仏にという法華経の主張の根っこは諸法実相にこそあると仰せなのです。

御書を拝したいと思います。
 「下地獄より上仏界までの十界の依正の当体・悉く一法ものこさず妙法蓮華経のすがたなり」(諸法実相抄1358㌻)
「実相と云うは妙法蓮華経の異名なり・諸法は妙法蓮華経と云う事なり・・・万法の当体のすがたが妙法蓮華経の当体なりと云ふ事を諸法実相とは申すなり」(同1359p)



 この世の中に存在するあらゆる事象・出来事が諸法であり、それら万法の当体が妙法蓮華経だと仰せです。世の中にはおぞましい悪もあれば理解できない不条理もあります。仏や菩薩の生命もあれば魔や地獄の生命もある・・・それらすべてが妙法蓮華経だというのですから、難信難解ですね。戦争を起こす権力者も殺を好む悪人も妙法蓮華経の当体だと言われれば、ちょっと考えてしまいます。

 しかしもう一歩深く考えますと、それらの生命も仏の生命であるゆえに変革していけるし救うこともできると言えます。もし殺人をするような悪人が妙法とは無縁であれば、その人を救うことはできない。どんな悪人にも十界があり仏の生命があり、だからどの人も見捨てないのが一切衆生を幸福に為す法華経です。あらゆる諸法が展開される宇宙の根源に妙法があり、森羅万象、諸法すべてを含めて宇宙生命なのであり、それは即妙法であると捉えるのだと思います。

 その上で悪や魔とは徹底して戦わねばならない・・・戦わなければ善や正義は負けてしまい、人々を不幸にする奪命者が跋扈する魔王の世界となってしまいます。それゆえ仏と魔の戦いは永遠に続くものだと言えます。

池田先生:真理(実相)と言っても、どこか遠い別世界にあるというのではない。具体的な現象(諸法)から絶対に離れず、あくまで、この具体的な現実(諸法)の真実の姿(実相)に、英知を集中させている。寿量品(第一六章)にも「如来は如実に、三界の相を知見す」とあります。三界とは現実世界です。現実世界から決して離れない決心―これが仏の心なのです。

 私たちの生活において様々な出来事(諸法)があります。どうしてこんなことがと思う理不尽なことも、また信心しているのに経済苦や病気などに遭遇することもあります。しかしそれらの現実から目をそらせば逃避であり、敗北です。その過酷な宿命を現実と捉え、妙法(実相)を根本にどこまでも宿命転換を目指していく。それが信心する者の「諸法実相」を体現する姿だと言えないでしょうか?

 信心を根本にすればありとあらゆる悩みを乗り越えていける・・・そこには希望があり、楽観的肯定的生き方があります。学会員が悩みに負けず明るい笑顔で苦難に挑戦できるのも、その力強い妙法の功力があるからです。

 私も新しい年を希望に満ちて、明るく朗らかに、より一層、自他共の幸福のための一年にしていきたいと思います。訪問していただく皆様の更なるご多幸、御健勝をお祈りしつつ、明年、心ある同志の皆様とともにさらなる前進をしていきたいと思います。






開三顕一― 「師弟の道」から「師弟不二の道」へ⑦

 
 宗門が宗祖の滅後の700年もの間、法体を護持するだけにとどまったことは、どなたも承知の事実です。それが創価学会・・・就中(なかんづく)、牧口先生、戸田先生の出現を待って、ついに広宣流布の扉が開かれました。この事実がある限り、大聖人様の「師弟」の血脈が創価学会に流れ来たったことは疑いようもないことであり、現証が雄弁に真実を物語っています。

 時の猊下であった日淳上人は次のように述べられています。
「大聖人は日蓮が法門は第三の法門と仰せられておりますが、誠に此の仰せを身を以て承けとられたのは会長先生(戸田先生)であります。大本尊より師弟の道は生じ、その法水は流れて学会の上に伝わりつつあると信ずるのであります」

 牧口先生、戸田先生が先達となり、そのあとを受けて池田先生が一人立って、戸田先生のご構想をすべて現実のものとされていかれました。今、世界広布の幕が開き、地涌の菩薩があらゆる国で躍り出る姿は、あたかも泥の中から清らかな蓮の華が次々と開いていくように私には思えます。もうこの流れは誰にも止めることはできないでしょう。創価学会が世界宗教としての本来の姿を現したのであり、発迹顕本をなして一切衆生を救うという使命の世界を開いたのです。

 池田先生は戸田先生と出会われてより、一人「師弟不二の道」を歩みぬかれました。たとえその道を知ったとしても、その道を歩き通すことは至難の業です。それができたのも池田先生だったからであり、ほかの誰人も真似すらできない偉大な師弟としか言いようがありません。

 人間革命には「師弟不二」の御心境の一端を語られています。

 「その彼の作戦の根本は、戸田の指針と全く同一であった。不二であった。彼には戸田の指導を理解しようなどという努力は、すでに不必要であった」「彼は一念において、すでに戸田の一念と合一したところから出発していた」(『人間革命』10巻)とあります。

 これが師弟不二の境地というものでしょう。戸田先生と池田先生は思想から行動において一体なのです。それゆえ広宣流布の大事をなすことができました。師弟が相違していれば今の創価学会の発展はなく、世界は光のない中を三悪道に今以上に翻弄されていたのではと思います。今後はますます創価学会が世界の幸福と平和の灯台となって輝いていく時代になるに違いありません。

 信心の戦いは決して華やかなものではありません。誰が見るでもない中を黙々と唱題に励み、同志を励まし、不幸な人に仏法を教え、地道に地域に根を張る戦いです。いわば陽の射さない海底でこつこつと地殻を穿ち整えていくような仕事かもしれません。池田先生を師匠として幾百、幾千万の地涌の菩薩が平和と幸福のために黙々と戦っている・・・その戦いの上に必ず「広宣流布の楽土」が出現することを信じたいと思います。

 世界広布の基盤が盤石に出来上がったことをご覧になって、牧口、戸田先生はきっと大満足されているものと思います。池田先生が仮に今世を旅立たれたとして、世間は学会も空中分解だと喜ぶかもしれませんが、先生は世間の人が知らない広宣流布の大基盤を厳然と作り残されました。それは誰にも崩すことはできないでしょう。まさに「金剛不壊」の大城です。後はその舞台に陸続と青年が続くことでしょう。池田先生も「私はやり切った…あとは君たちだよ」との思いで後継の学会をご覧になっていると思います。

 この章を学ぶことは自分自身がより池田先生との師弟の不二の道に入っていくためであることを改めて感じます。師弟不二の道が仏道修行の道であり、そこに功徳も無量にあることを確信しながら、喜び勇んで学会活動に邁進していきたいと思います。


開三顕一― 「師弟の道」から「師弟不二の道」へ⑥

池田先生:「子とは地涌の菩薩なり父とは釈尊なり」(御書803p)と、大聖人は仰せになっている。師と同じ誓願、同じ責任感、すなわち師弟不二に立ち上がった弟子が「地涌の菩薩」です。そして「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか」(同1360p)と仰せです。この「同意」に意味がある。日蓮大聖人のご誓願を我が誓願として、今まさに広宣流布へ進んでいる創価学会こそ、久遠の使命を担った「地涌の菩薩」の教団です。大聖人と一体の弟子の集まりなのです(第一巻198p)

 地涌の菩薩である学会員と日蓮大聖人様は一体であり不二だと言われます。それを否定して信徒と大聖人様との間に入り込み信徒の上に君臨し、「お前たちはせいぜい地涌の菩薩の眷属だ」と差別化するのが宗門です。大御本尊を盾に大聖人を凡夫から遠い超絶の存在として崇めさせ、自分たち僧侶はその間を取り持つ権威者として高い位置にあろうとする。

 それでは大聖人の仏法ではありません。民衆である凡夫が仏であり、それによって一切衆生を救うというのが御本仏の教えです。大聖人様と凡夫が一体不二となるから救えるのです。それを不二でないというのは完全なる邪義であり大聖人様に違背するものです。

池田先生:大聖人を崇めているようで、実は大聖人の御心を殺しているのです。最高の「人間尊敬の教え」を、最低の「人間蔑視」に、すり替えてしまっている。民衆を蔑視する傲慢ゆえに、大聖人の説かれた「不二」の道を壊したいのです。ドストエフスキーは洞察している。実は傲慢な人間の多くは神を信じる。「人間を軽蔑しているもの」には、それが著しい。なぜなら彼らは、「人間に頭を下げたくない」から神を選ぶのである。「神の前に跪(ひざまず)く」のであれば、自分の傲慢は傷つかず、何ら苦痛ではないからだ(未成年・要旨)文豪の非常に鋭い心理学者の一面をのぞかせている。

 その宗門についていった人たちは、坊主たちの権威に崇高さや威厳を感じたのかもしれません。娑婆世界で貧乏や病気を演じながら、悪戦苦闘しながら広宣流布の戦いをしている民衆より、頭を丸め衣を着て澄ましこんだ僧侶のほうが立派だとでも思ったのでしょうか。「この世の中で最も尊いものは人間である・・・人間こそが仏なのである」というのが日蓮仏法の本質であり究極です。それ故に民衆が幸福になれるのであって、そこを否定する考えは反仏法です。

 現世が苦しいとどこか遠い高みに「神」という存在を置き、そこに心の慰安を求めたり逃避するという心理はわからなくもありません。またその心理を利用して人々を惑わす宗教がはびこっているのも現実です。しかし、自分自身が現実に強くならない限り、本当の幸せはありませんし、慰安や逃避では根本的な解決にはならない。大聖人の仏法が、現在、キリスト世界においても受け入れられるのは、自分を変革できる「人間革命」の宗教だからであり、実践した人に功徳が生じ、その歓喜の波動が広がっているからに違いありません。

池田先生:堕落した人間に惑わされることほど愚かなことはない。要は見抜けばいいのです。「師弟不二」こそ法華経の魂であり、日蓮大聖人の仏法の真髄です。その一番大事なものを壊し、切り離そうとする。それが「魔=奪命者」の特徴です。「不二の道」の否定は、十界互具の否定、人間平等に対する冒とくに他ならない。この一点に、日顕宗の本質が顕れている。(同201p)

 日顕宗の誤りを明快に破折されています。大聖人様の仏法の血脈は創価三代の会長先生に流れ来たり、「師弟不二」の道となって世界に流れ通うこととなりました。まさに「一大民衆仏法」の夜明けです。宗門がどう逆立ちしても広宣流布はできない、そして仏法の本質を破壊した僧侶のもとで信徒もまたその権威に跪(ひざまず)かねばならないことでしょう。それでは本当の人間解放の歓喜は生まれない。仏と凡夫がその間に何ものをも介さず一体不二となる時こそ、まさしく「一生成仏」を果たせる時であることを信じていきたいと思います。

 



開三顕一― 「師弟の道」から「師弟不二の道」へ⑤



 仏の願いは一切衆生を仏になすことです。三乗(声聞、縁覚、菩薩)が一乗の教えによって等しく仏になる道が示されました。池田先生はそれまで「師弟の道」を歩んでいた三乗が開三顕一が説かれたあとは「師弟不二の道」を歩むようになったと言われています。

 それまで三乗の中の菩薩は不作仏とされた二乗とは区別されており、それでは十界各別で差別があります。そのため菩薩の中の二乗界も仏になることができなかったわけです。それが一乗が説かれ、十界互具が明かされたあとは、どの衆生も平等に成仏ができるようになりました。

池田先生:そして、この大哲学の上に、すべての人々を仏にしようという大闘争の軌道に入った。そこで初めて、仏が歩んでいるのと同じ道に入った。根本の一念において、師弟が同じくする同志となり、「不二」の道を歩む先輩と後輩の関係になった。そのように進んでいくのが、真の師弟なのです。(第一巻195p)

 仏である日蓮大聖人様と私たち学会員は、広宣流布への道を共に歩んでいく「師弟不二」の関係であり同志であると言われています。信心を始めて間もないころは日蓮大聖人様の仏法をただ聞くだけだったかもしれませんが、やがて友人知人に仏法対話をするようになり、人々を救うために法華経を広めるようになった・・・まさに仏様のお使いとして折伏をするのであり、今、現実に世界広布の指揮をとられる池田先生以下、すべての同心の人たちは「同志」であります。

池田先生:しかも、現実社会という、”海”に飛び込み、民衆一人一人を幸福への”大船”に乗せていく―この戦いにおいては、仏もまた菩薩なのです。(中略)ともあれ、師の心は「如我等無異」です。方便品に「一切の衆をして、我が如く等しくして異なること無からしめんと欲しき」(法華経176p)とある。すべての衆生に仏と不二の境涯を得させようという慈悲です。(中略)同じこの道を歩ませたい、不二の道を会得させたい―これが仏の「本誓願」です。
もちろん、法華経以前の三乗も、仏を信じてついてきた。それなりに師弟の道を歩んできたでしょう。しかし、そこには自分は自分、仏は仏という断絶の心があった。師の心を知らなかった。その迷妄を破ったのが法華経です。
(同196p)

 二乗のことを「二乗根性」と悪くいうこと自体差別的ですが、人を蹴落とし自分だけいい思いをしたいという餓鬼界も、人を見下げる修羅界も利己主義には違いありません。地獄の衆生も含め因果があって三悪道に堕ちたのですから、二乗だけを悪くいうのは自分のことを棚に上げた物言いだと思います。

 そうした十界格別の境涯を横一線で仏にしようというのですから、法華経はありがたい教えです。地獄の衆生がひとつづつ境涯を上げていくとなると、これは人生ゲームのように大変ですが、十界互具により「地獄即仏」と開くわけですから素晴らしいというほかありません。

 池田先生:戸田先生は言われていた。「かじ屋の弟子であるから、かじ屋でしょう。魚屋の弟子だから魚屋でしょう。同じように仏様の弟子は仏様でしょう。うまくいっています」「(我々も)大聖人様の仰せ通り折伏しているのですから、大聖人様の弟子なのです」と。また「我々は仏様の子供です」と何度も強調されていた。自覚しようとしまいと、「ライオンの子」は「ライオン」です。「仏の子」は「仏」です。ほかの何ものでもない。ライオンであるという事実、仏であるという事実に変わりはない。それを「自覚」すれば「不二」の道となる。

 大聖人様から見れば私たちは「仏の子」であり。「真の仏子」なのです。しかし、肝心の本人がそうだと思っていない、自覚していないのではどうしようもありません。100人の学会員に「あなたは仏ですね?」と聞いたら、何人の方が「ハイ、そうです」と答えるでしょうか?自信をもって手を上げるのは10人ほどでしょうか?そうなると後の人は自覚していないということになります。それではいけないということだと思います。信心は「自覚」した人から仏になる―「自覚」が弟子としてのキーワードではないでしょうか。

 地獄にいようが餓鬼界にいようが、仏の子は仏です。あえて地獄や餓鬼界の人の中に入り、同苦して人々を救っていかねばならない。そのためにそういう姿で生きていくのだと思います。

 今、自分がどんな苦境にいようとも、また出口の見えない闇に立たされようとも、「仏の子」という自覚に立って、妙法流布に立ち上がれば「地獄即寂光」と開きます。いついかなる時も苦悩の宿命を使命に変えて、「我、仏なり」と御本尊を抱きしめ前進していきたいものです。


 

 

開三顕一― 「師弟の道」から「師弟不二の道」へ④


 法華経にきて十界互具が明かされ、二乗を含めた一切衆生が成仏できることが明かされました。二乗の喜びがどれほどのものであったか・・・声聞である舎利弗も躍り上がって喜び、釈尊に向かい合掌したと説かれています。智慧第一と言われた舎利弗でさえそれほど喜んだわけです。

 いい大学を出てエリートとなっても、その地位や学歴を鼻にかけて人を見下す冷淡な心の人も世の中にはいます。折伏を受けても、見もせず信じようともしない人もたくさんいるわけです。しかし、舎利弗は喜び信心の世界へと入ることができました。それは日ごろ見て聞く釈尊の振る舞いや説法が立派だったからかもしれません。また舎利弗自身も自分の智慧だけでは解決できないものを感じ、さらなる道を求めていたのかもしれません。この時の舎利弗の言葉を池田先生は紹介されています。

池田先生:根底から一念が変わったのです。そして舎利弗は、一仏乗を納得してこう告白しています。「今、仏から未曽有の法を聞いて、すべての疑いや悔いがなくなり、心身ともに安穏になりました。今日はじめて知りました。自分は真の「仏子」です。仏の口から生まれ、仏の教化から生まれたのです」(法華経194p趣意)(第一巻191p)

 声聞から仏子(菩薩)に生まれ変わった・・・それは「教えの声を聴く声聞」から「教えの声を聴かせる真の声聞」(同191p)へと生まれ変わったのであり、声聞は声聞の姿のままで「如来の使い」としての使命を果たすようになったと言われています。これは舎利弗の発迹顕本に通じるものだと言えないでしょうか。

 私たちもどのような境涯にいたとしても、信心することによって仏界を涌現することができます。普段は会社員であったり、八百屋さんであったり様々な姿ですが、信心して仏の誓願に連なり広宣流布に生きるなら、その人は「如来の使い」を行じる地涌の菩薩です。私たちも同様に今の凡夫(迹)の姿のままで仏(本)の生命を顕すことができます。そのことをより深く信解するために、日夜仏道修行に励んでいくものです。

  智慧第一の舎利弗が躍り喜んだのですから、私たちも歓喜踊躍しなければなりませんね。「不知恩」と言われた二乗が仏の大恩を知り、無量億劫という時間をかけてもその恩に報いることはできないだろうと述べています。さてさて私たちはどうでしょうか?そこまでの感謝と報恩の心でやっているでしょうか・・今一度自身を見つめ直す必要があるように思います。

「ああ、今日もまた会合か」・・・(笑)などと物憂く思うなら、功徳もどこかへ逃げていきます。どうせやるなら「自分も日蓮大聖人様と同じ仏の生命なのだ」と大歓喜に燃え、前進していきたいものです。

 池田先生:あなたがたは自分を声聞だと思っているけれども、実は「菩薩」なのですよ。敢えて声聞の役を演じながら、人々を仏道に向かわせているのですよ―こう教えているのだね。(同193p)

 たとえ今の姿がみすぼらしいものであっても、妙法をたもつ人を軽んじたり侮ってはいけない・・・「当起遠迎当如敬仏」(とうきおんごうとうにょきょうぶつ)「当に起って遠く迎うべきこと、当に仏を敬うが如くすべし」と、これは釈尊八年の説法の最上第一の相伝の八文字です。

 私も舎利弗ほどの智慧もない愚かな衆生ですが、「妙法」を受持しているがゆえに、無上尊貴な仏の軍勢に連なるものです。ほかに誇れるものなど何もなし・・・宿縁深くして今世に妙法をたもつことこそ人界最高の生き方であると信じ、胸にかけた御本尊を抱きしめて、さらに精進を誓っていきたいと思います。


開三顕一― 「師弟の道」から「師弟不二の道」へ③


 よく「仏法には無駄がない」と言われます。人に仏法を説いて反対されても、法を説いた人には功徳が出ます。また反対した人も毒鼓の縁となって生命に下種を受け、かかる未来に成仏が約束されます。どの振る舞いにも無駄がなく、幸福へと向かっていけるのですから、そこが仏法の素晴らしい点だと常々感心します。

 爾前教では二乗は成仏できないと説かれましたが、法華経にきて十界互具が明かされた以上、二乗が成仏できなければ、他の衆生も成仏できなくなるという不都合が出てきます。

 池田先生は「人の不成仏は我が不成仏、人の成仏は我が成仏・凡夫の往生は我が往生」(御書401p)との御書を引かれて、「二乗が成仏しないのは今まで他人事であったのが、法華経にきて他人ごとではなくなった・・・これは生命観、世界観の大転換です。」と言われています。

 今、日本の外交では日韓問題がこじれており、中には反日と嫌韓で国交断絶も厭わないという考えも見られます。その気持ちもわからないではありませんが、解決方法としては決してそれでいいとは思えません。日本が幸福で韓国は不幸でもいいというのは仏法を学んでいけば矛盾した話だということが分かります。なぜなら「自他不二」と説く仏法の生命観では、他国の不幸は自分の不幸ということになるのです。決して自分だけの幸せはない、自他ともに幸福になるという考えが、どこまでも目指すべき平和の道なのです。

 私たちは因果に冥(くら)い衆生ですが、「自他不二」であるなら、人を傷つければ自分が傷つくことになり、人を殺せば自分が殺の報いを得ます。これがわかれば悪いことはできない。逆に人を尊敬すれば自分に尊敬が返ってきます。今、自分が人から馬鹿にされたり見下されるのは、過去に人に対してそういうことをしたからです。そうなると私など相当人を馬鹿にしたことがあったのだと愕然としてしまいますが・・・

 続いて本文では不軽菩薩の話が出てきます。御書にある「自他不二の礼拝」」(御書769p)という言葉が紹介されます。不軽菩薩が人々を礼拝するとき、人々の仏性もまた鏡に映るがごとく、不軽菩薩を礼拝すると言われます。不軽菩薩は自分を迫害してくる人に対してもその仏性を信じ礼拝した・・・ここに仏法がどこまでも非暴力であり、究極の平和思想だとの原点があるのではないでしょうか?

 どんなみすぼらしい姿の人であっても仏性を持っている・・・それを見下げたり差別すれば仏様を見下すことになります。私たちの住む世界では今も日常、なんと多くの人を見下げたり、差別することが横行しているものかと思います。世界中のその歪んだ生命の眼を、一切衆生を仏と見る仏眼に変えていこうというのですから、いかに至難で壮大な戦いであることか、容易に想像できます。

 その道を信じ広宣流布に挑んでいるのが、創価学会ということになります。民衆の手に渡された仏法の灯を、この人からあの人へと膝詰めの対話で点火していく・・・それがやがて燎原の火のように一国に広まりゆくまで、そして仏法の法味をどの人にも味わってもらいたいとの思いで、学会員は師弟共戦で進んでいくものです。

池田先生:「あなたも私も、人類という大陸の一部(ジョンダン)――すべての人の幸不幸を我が幸不幸と観じて生きる〝大陸大の境涯〟を開きたい。否、〝宇宙大の境涯〟を開かせたいというのが、戸田先生が強調された「一仏乗」の目的であり、「開三顕一」の心ではないだろうか。そこまで人類の境涯を高めたいと。(第一巻188p)

 創価学会の使命の大きさを学び、我が身にそれを信念として据え、自分に与えられた国土世間で、今日も誇らかに胸を張って前進していきたいと思います。







プロフィール

王者の剣

Author:王者の剣
 一創価学会員です。池田大作先生の「法華経の智慧」(聖教新聞社)に学んでいます。記事はあくまで未熟な一会員の思索であり、自分のための「研鑽ノート」といったものです。そのことをご理解いただきお読みいただければと思います。

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