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開三顕一― 「師弟の道」から「師弟不二の道」へ②

 
 二乗作仏についてのお話が展開されます。

 文中、遠藤氏も言われているように、「二乗」というと特に爾前教においては、悪いイメージで言われていることが多い・・・利己的で人を救う心がないという意味で、「二乗根性にはなるな」という風に言われたりするわけです。それについて池田先生は「それだけでは二乗がかわいそうだね」と言われています。二乗は本来、激烈なまでの「求道心」を持ち「真理への渇仰」をもって、物事を探求していく人だからです。

 学問の分野においても、真の研究者は、寝食を忘れ研究に没頭し、真理を得ようと励んでおられることでしょう。中には自分の名誉の為にやっている人もいるかもしれませんが、心ある人は本当に世の中のため、苦しむ人のために命を削って、研究されているのだと思います。それを二乗根性と決めつけては確かに申し訳ない・・・人として尊敬すべき立派な人だと言えます。

池田先生:戸田先生は、皆にわかりやすいよう意味を広げて、現代において二乗とは「知識人」に当たり、本来ならば「世の宝」となる人々であると言われています。例えば、ノーベル賞をいくつももらうような大学者、大哲学者をイメージすればよいかもしれない。しかも名聞名利を捨て、私利私欲を滅し尽くそうと努力している。いわゆる大人格者です。その意味では、二乗など、なろうと思っても、そう簡単になれるものではない(笑)(第一巻181p)

 そんな立派な人格者である二乗が、どうして法華経已前には成仏できないとされたのか?いくつかお話が出てきますが、まず二乗の修行の理想が「灰身滅智」にあると斎藤さんが指摘されます。その結果、仏になるべき自分すら消滅してしまうと・・・また須田さんは菩薩には利他の心があるけど、二乗には自利の心しかなく、それ故に成仏できないと指摘されます。

 池田先生は御書の一説を引用しつつ、次のように言われています。

池田先生:「永く六道に還らんと思わず故に化導の心無し」(御書434p) また「解脱の坑に堕して自ら利し及以び他を利すること能わず」(同191p)・・・救うべき人を見捨ててしまっては、もはや仏法ではない。またそれでは自分も救われない。ゆえに「一念も二乗の心を起こすは十悪五逆に過ぎたり」とされたのです。(同182p)

 ところが二乗が成仏できないということはどういうことなのか? 二乗以外の六道や菩薩が救われ二乗だけが救われないとなると、これは一切衆生を救うという菩薩の誓願に反することになってしまいます。それでは無慈悲の誹りを免れません。

池田先生:菩薩は「四弘誓願」といって、成仏を目指して四つの誓いをした。その一つ、「衆生無辺誓願度」とは、すべての衆生を救わんとすることです。二乗を不作仏のまま見捨てるなら、菩薩はこの誓いを捨てたことになる。誓いを捨てれば成仏はできない。大聖人は「所詮は二乗界の作仏を許さずんば菩薩界の作仏も許さざるか衆生無辺誓願度の願の闕(か)くるが故なり」(御書589p)と仰せです。(同184p)

 そして法華経以外の教えは「十界互具」ではないからだと言われています。法華経にきて初めて十界互具が明かされました。二乗にも悪人にも菩薩界、仏界が具足していることが明かされたのです。

池田先生:端的に言えば、仏界とはどこにあるか。ほかでもない、二乗界にある。逆に二乗界とはどこにあるか。ほかでもない、菩薩界にある。また仏界にもある。生命観の大転換です。(同185p)

 十界互具によって、一切衆生が仏の生命であり、仏を信じることにより成仏できることが理の上でも明かされました。法華経已前で説かれた二乗や三乗(声聞、縁覚、菩薩)は法華経にきて成仏するための教え(一乗)に導くための方便であると示されたのです。

 どの人の生命にも二乗界があります。二乗界が不作仏ならば、仏の中の二乗界も成仏できません。その意味で、十界互具という法理は万人の成仏を可能ならしめるために、なくてはならない大事な法理だと言えるのです。






開三顕一― 「師弟の道」から「師弟不二の道」へ①

 今回から新しい章に入り、「開三顕一」へのお話へと入っていきます。

池田先生:法華経の意義は、そうした未熟な人類を、賢き人類へと変革させていくことにある。「仏界」という、一人一人の内にある最高の境涯を開発することにある。全人類の境涯を高めたい―この一点に、戸田先生の願いと悩みもあった。(戸田先生)"我ら学会員こそは、「地涌の菩薩」である。「如来の使い」「日蓮大聖人の使い」と確信すべきである。この確信に立つとき、私どもは「如来の事」を行わなくてはならない。それは何か。それは一切の人をして仏の境涯におくことである。すなわち、全人類の人格を最高の価値にまで引き上げることである"と。(第一巻174p)

 戸田先生の目的は「全人類」を救っていくことにあります。世界中に仏法を広め、いまだ信心を知らないない人を救っていかねばならない。仏と等しい境涯にまで引き上げたい・・・それは戸田先生の崇高な悩みであり、そこから未来を見据え、一切の手を打たれていかれたことと思います。その目的を引き継いで師弟に徹し実現されたのが池田先生です。

 学会員は多くの人と会い仏法対話をしますが、仏法を求め喜んで入会をするという人は稀ですね。こちらの力が足りないものか、歯がゆい思いをしなければなりません。本当に相手に正しい信心をたもってほしいとの思いでぶつかっても、受け入れない人が多いのが現実です。そこに折伏する者の悩みもあると言えます。

 仏法の功徳というのは、「心の財」であっても、簡単に目に見えません。折伏する側が「人間革命」を果たし、相手が目を瞠るような実証・現証を見せていかねば、信心の力を認めようとはしません。仏力法力をわが身に現すためにも、「広宣流布の為に実証を上げさせてください!」と真剣に祈っていきたいと思います。

 続いて「開三顕一」のお話が出てきます。これは三乗(声聞、縁覚、菩薩)を開いて一乗(仏)を顕すという意味です。仏は衆生に仏知見を開かせ、示し、悟らせ、仏の道に入らせる(開示悟入)ことが仏の目的(一大事因縁)です。ところがこの仏の知恵は凡夫には理解しがたいものです。そのため方便として三乗を説き、それを開いて真意である一乗を説くことになります。

 池田先生は「開三顕一」を「開三」と「顕一」に分けてお話しされています。すなわち、「如来は但一仏乗を以っての故に、衆生の為に法を説きたもう。余乗の若しは二、若しは三有ること無し」(法華経167p)これは「顕一」の面を表し、「諸仏、方便力を以って、一仏乗に於いて分別して三と説きたもう」(法華経170p)これは「開三」の面となります。三乗は仏の一乗を方便で説き分けたものということであり、それによって、仏の真意が一仏乗にしかないことを方便品で強調します。

 また「三乗は方便」「一乗こそ真実」と明かし、三乗を一乗のもとに統一することを「開会」といい、それには人と法の二面があると説かれます。「法開会」は上に述べたように三乗を一乗に統一することであり、結果、一乗を開くために三乗も部分観として生かされます。「人開会」は一乗によって教化される衆生はすべて菩薩であると明かされることになります。

 要は仏の教えは一仏乗しかなく、二乗(声聞縁覚)も菩薩へと統一され成仏を目指すことができるようになります。それにより一切衆生が成仏できるので、その意味で「二乗作仏」が「開三顕一」の要ということになります。

 私など二乗どころか、六道の最下を生きてきたような人間ですので、頭のいい二乗の人をうらやましく思いますが、日蓮大聖人の仏法によって、どの境界からでも平等に仏界に至ることができるようになりました。地獄界であっても二乗界であっても等しく仏界を所具し、今いるところで即座に仏を呼び出だすことができるのですから、こんなにありがたいことはありません。

 仏法をたもつ人は、今世で「一生成仏」できるチャンスを手にした人です。私もこの機会を決しておろそかにまた安易に考えてはいけないと思っています。何としても今世で大願を成就させたい・・そのための師弟の道です。日蓮大聖人様の御出現によくよく感謝して、信心に励んでいかねばならないと思います。

 

方便 ― 巧みなる「人間教育」の芸術⑧

 
 今、創価学会も後継の育成に力を注いでいます。後継の青年部を育てる以外に未来はないというのは、どの組織も同じですね。私も男子部をはじめ、人材を育成するということを常に心に置いています。もちろん自分自身の成長を根本にして、自他共に若竹のように伸びていく・・・その成長の息吹がなければ、組織と言っても魅力のない惰性の組織になってしまうのではないでしょうか?

池田先生:方便品に「如我等無異(我が如く等しくして異なること無からしめん)」とあります。一切衆生を、自分と同じ境涯にまで高めたいという仏の誓願です。ここにこそ、人材育成の精神、「人間教育」の精神の根本があると思う。それが「師弟」の心です。もちろん、自分もさらに成長していく立場ですから、”自分と同じように„というより、‟この人を自分以上の人材に育てよう„という決意が「如我等無異」に通じるでしょう。(第一巻168p)

 組織と言っても「人間関係」「人間性」の集合体です。師弟を縦糸に、同志との絆を横糸に、互いを自分以上に高めていく中に、魔に打ち勝つ仏の軍団ができあがっていくものです。憎悪や嫉妬、人を見下すような権威性があれば、それはたちどころに魔に攪乱されるところとなり、人を育てるどころか、人の信心を破壊することになってしまいます。また異体同心が魔に食い破られてしまいます。「建設は死闘、破壊は一瞬」であり、魔は常にそういう隙を狙っているものです。

 「人間性」という意味では、慈愛の深い母のごとき婦人部、また信頼できる黄金柱の壮年部がどれほど大事か・・・現場ではそのことをいつも痛感します。私も若いころから、この人なら一緒にやりたいと思える先輩を欲したものです。今は、自分がそういう壮年であるかどうかが問われますので、青年部から慕われる存在でありたいと思います。

 池田先生もロシアの詩人のプーシキンの詩才が農奴の一老婦人によって育まれたこと、また三重苦のヘレンケラーをハーバード大学まで行かせたサリバン先生のことなどを例に、人を育てることの尊さを語られています。特に生涯、ヘレンケラーの目となり耳となって、彼女を育て上げたサリバン先生のお話は、誰もが感動するお話です。私も子供のころにその伝記を読み、「とても自分にはここまでできない」と思ったものです。

 ヘレンケラーは後年、心に誓います。「先生は、自分のような者のために、その一生を捧げ切って死んでいかれた。それこそ完全な奉仕の生涯である。残されたわたしこそ、その連続でなければならない」(ヘレンケラー著「私の生涯」)そして人生を目の不自由な人々の救済に、全世界を走り捧げました。

 池田先生もかつてSGIの発足に際し、こう言われています。「皆さん方はどうか、自分自身が花を咲かせようという気持ちでなくして、全世界に平和という妙法の種をまいて、その尊い一生を終わってください。私もそうします」

 信心には無駄はないと説かれます。人のために動けば、やがてその行動は必ず自分を照らすというのが仏の世界です。妙法流布のために活動しぬいていけば、やがてわが身が仏となって荘厳されていくことは、御書に照らしても明らかです。信心はまさに菩薩行なのですね。

 「生きていく途中で、血の一滴一滴をたらして、他の人を育てるのは、自分が痩せ衰えるのが自覚されても、楽しいことである」・・・これは魯迅(ろじん)の言葉です。池田先生は師と弟子が一体となって、人類を潤す人間性触発の教育運動を繰り広げていくことが法華経の秘妙方便に通じていくと語られ、「今、私も全く同じ気持ちで、青年を育てている。」と言われています。

 学会が「師弟不二」「異体同心」の世界で、互いの人間性を触発し高め合う姿こそ、仏の振る舞いの姿そのものです。他者を自分以上の人材に育てていこう!どの人も仏の生命へと昇華させていこう!そうした献身的な行動はどの人の生命も軽んじなかった不軽菩薩の振る舞いに合致していくものです。そこに「人間主義」「生命尊厳」を基調とした、自他共の幸福、また世界平和に貢献しゆく創価学会の仏の軍団としての使命があることを、強く確信したいと思います。



方便 ― 巧みなる「人間教育」の芸術⑦

 

 仏法の方便の思想と教育の関係について語られます。

池田先生:真の宗教性と、真の教育の精神とは、伸び伸びとした『人間全体の開放』という理想において、実は表裏一体なのである。(1990年創価教育同窓の集いより)

 また牧口先生が、「人間を幸福にする教育」の探求の結論として到達したのが、法華経であったことも紹介されています。

 仏法の説く幸福とは究極の人間解放を実現することであり、教育の目的も一人一人の個性を開花させ、伸び伸びと満開の花を咲かせゆくことにあると言えます。決して同じような人間を大量生産することが目的であってはならない。それでは偽物の教育であり、全体主義であり、人間主義に反するものです。

 私も学会に入る時、男子部でしたので、人と同じように髪を七三に分け、いつもスーツにネクタイを着用しなければいけないのか?(笑)それは窮屈だと思いました。入ってみるとそれは違っていて、個性重視の伸び伸びとした世界だったわけです。今、私も信心しながら、大いに人と違っていいのだ。私にしかない「私」を開花させるのだ・・・との思いでやっています。人と違うことに自信が持てる、一個の独立した個性として生きていける、それが信心する人の生き方だと思います。

 ペスタロッチの言葉も紹介されます。

「人類に純粋な幸福を与える力というものはすべて技巧や偶然のたまものではない。それらはすべての人間のうちに、人間のさまざまな本性といっしょにひそんでいるのである。それを引き出して育てることこそ、人類共通の願いである」(ペスタロッチ「隠者の夕暮れ」より)

 仏法にある「桜梅桃李」の思想と合致します。桜や梅のあの美しい花も、幹の中に花の本性と共に潜んでおり、時を待って開花する。外から作るのでもなく、偶然に咲くのでもない。幹の中に花はあるのであり、宇宙のリズム、自然のリズムに則り、自ずと開花します。人間の幸福も同じであり、それを可能にすることを明かした法華経こそが、人間教育の最高峰であり、幸福への無上道です。

 池田先生はコロンビア大学のサーマン博士の言葉に感動されたと言われています。それは博士が「社会における教育の役割は何ですか?」と尋ねられた時、その質問は「教育における社会の役割はなんですか?」であるべきであり、教育が人間生命の目的であると私は見ている・・・と答えられたことです。

 池田先生:つまり、「教育は、社会の一部分ではない。社会から派生したものでもない。教育こそが、最初から人間と共にあり、人間の最も根源的な営みである」という見方です。「人間」とは「教育」を離れてありえない存在なのだと。だからこそ「師弟」が根本の大事となるのです。

 博士は「教育が、人間生命の目的である」と述べられている。言い換えれば―人間は何のために生まれたのか。何のために生きるのか。それは「教育によって、生命の可能性を極限まで開くため」である、ということでしょう。その究極が(仏知見)の開示悟入です。
(第1巻167p)

 「人間生命の目的が教育である」とはなんと味わい深い言葉でしょう。私もこの言葉に感動しました。人生の目的は幸福であると説かれます。そしてそれは仏知見を開いて仏の生命を悟らしめることであり、そのために仏様は方便力を用いて凡夫を教育される。それを信心で受け止め、凡夫は一生成仏へと向かっているのです。

 信心は幸福になるために仏様の教育を受けることだと思えば、我々も最高学府に行くようなそれなりの覚悟が必要です。それは求道心です。またその道が厳しいのも当たり前ではないでしょうか。それ以上に最高学府で学べる喜びもあるはずです。現実社会において、その最高学府とは創価学会であり、師匠である池田先生の下、弟子として仏法を学び、実践するということになります。

 学会員は、様々な苦難に直面し、時には宿業の深さに伸吟しつつ、信心に励んでいます。それらの苦難は大学に例えれば自分が幸福になるために与えられた問題であり、テストのようなものです。難問に次ぐ難問だと言いたくもなりますが・・・(笑)しかしまた仏法で解決しない問題もないはずです。大きな難問に遭遇したその時こそ、より大きな幸福へと転換できると信じ、一層、信行学に勤しまねばならないと思います。




方便 ― 巧みなる「人間教育」の芸術⑥

「所詮謗法不信の人は体外の権にして法用能通の二種の方便なり・・・・今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱え奉るは是秘妙方便にして体内なり」(御書714p)

 信心するまでの出来事は法用または能通方便であり、「体外の権」です。また信心してからは秘妙方便となり「体内の権」であると教えられます。

池田先生:入信する前のさまざまな人生体験は、「体外の権」であり、法用方便・能通方便に当たる。妙法の素晴らしさは、入信したあとの体験がすべて秘妙方便として輝くだけでなく、入信する前の体験までもが、すべて生きてくるのです。これが「体内の権」です。戸田先生もよく「一生のすべての体験が生きてくるのだ。何ひとつ、塵も残さず、無駄はなかったことがわかるのです。これが妙法の大功徳です」と言われていた。(第一巻161p)

 私など入信前も入信後もロクなことはやってこなかった方ですが、これから信心を強めていけば、すべての体験が生きて輝いてくると言われます。悪事も罪も罰も不幸も妙法を受持するなら、すべてが自他共の幸福のために無駄なく生きてくるのですからありがたいことです。

 よく過去に犯した罪なりで、自分を責めて苦しむ方がおられます。私もそういうところがあります。しかし、その人こそ信心を励ましていくなら、どんな罪もやがて消滅し、その体験に無駄がないことがわかってくるのです。罪を感じる人ほど、懺悔して信心に励むこともできます。最も大きな罪は「法華誹謗」だと思いますが、私も自身の身体にその罪を感じ、御本尊に懺悔し、罪障消滅を願っての信心です。

池田先生:秘妙方便は、いまだ妙法を持たない人であっても、本人は知らないが(秘)、実は妙法と一体(妙)であることを教えています。ゆえに、生命の奥底では、妙法を求めているのです。御義口伝では「大謗法の人たりと云うとも妙法蓮華経を受持し奉る所を妙法蓮華経方便品とは云うなり」(御書714p)と仰せです。(同163p)

 私も自分の入信前を考えますと、様々な悪道に染まり、自分を見失って人生の路頭に迷っていたように思います。そして生命力も枯れ尽きんとするところで、この御本尊に巡り合いました。もし私が順風満帆で、世間でも成功を収めていたなら、おそらく信心はしなかったかもしれません。そう思えば、悪道も自分が幸福になるために無駄ではなかったということになります。

 また27歳で人生で初めて折伏を受けた時、私は「これだ」とひらめくものを感じました、その夜、ノートに「南無妙法蓮華経」と書き、それをボロアパートの柱に貼り付けてお題目を秘かに唱え始めました。よほど生命の奥底で恋い焦がれ求めていたものと思われます。

 マラソンで言えば、人生中盤までビリを走っていた私です。給水所で妙法の法水をいただき、その功徳によって、今じわりじわりと前の方へと上がってきたのかもしれません。人生の後半から終盤に向かって「最後は信心しきった者が勝つ」ことを証明する戦いの時を迎えています。満を持してラストスパートの完全燃焼の時まで、命を惜しむことなく全速力で走りぬいていきたいと思います。

 妙法をたもてば、人生大逆転のドラマの主人公になれます。そうなってこの妙法がいかに素晴らしいか、世の中にあって明らかに立証するのだ・・・そういう使命を感じながら、信心に励む方は多いと思います。その時は大変ですのでそう思えないかもしれませんが、仏様はその試練を乗り越えることで、信者に大きな功徳を与えたい、一生成仏の軌道に載せてあげたいと、どれほど強く思っておられることでしょう。

 信心強き人は、そうした仏様の慈悲を感じるに違いありません。そして勇気と希望を自らの生命に沸き立たせ、御本尊への大確信を持って苦難に立ち向かっていく・・・そこに宿命転換と人間革命の醍醐味があり、絶対的幸福への大道があることを確信したいと思います。





方便 ― 巧みなる「人間教育」の芸術⑤

 

 仏界と言っても九界に即して現れます。仏界即九界です。また九界も仏界の当体として常に一体です。九界即仏界です。どんな悪人にも大歓喜の仏界があり、どんな高邁な人にも苦悩の九界はあります。どの人も等しく仏界を有していると説くのですから、平等であり究極の人間主義です。

池田先生:例えば、御本尊を信受した後の九界の苦悩は、苦悩のための苦悩ではない。すべて、より信心を奮い起こして仏界を強めるための悩みであるし、それを乗り越えて仏界(真実)を証明するための“秘妙法便としての悩み„となる。悩みはもっと成長しなさいと呼びかける“メガホン„なのです。(第一巻159p)

 私たちが悩みを抱えながら、何とかそれを乗り越えようと信心に励む時、それは妙法の力を証明するために戦っていると言えます。仏界を証明しようとするのですから、その悩みは秘妙方便の悩みだと言われます。その意味で悩みのある人は成長できる人です。私も悩みが絶えることはありません。とても大きなメガホンで仏様から声をかけてもらっていると思います。(笑)悩みが大きい分悟りも大きいと思って、焦ることなく眼前の戦いに一つ一つ勝っていく・・・それが一生成仏への王道だと思います。


池田先生:森羅万象・・・人生で言えば、生も死も、喜びも悩みも、罰も功徳も、生じる一切の現象、ありとあらゆる姿は、信仰者にとって、すべて妙法の表れであるし、妙法を証明する方便なのです。戸田先生は「罰も功徳も方便です」と言われた。

(中略)広宣流布のための悩みであれば、菩薩界所具の地獄界、仏界所具の地獄界でしょう。こんな尊い悩みはない。悩みの山に挑戦すればするほど、乗り越えれば乗り越えるほど、仏界は強まっていく。その意味で、信心が強ければ、マイナスは即プラスであり、罰も利益なのです。人生の上に起こる一切が功徳なのです。
(同160p)

 そう思える人が仏であり、秘妙方便を理解した人ですね。先生の御指導通りなら「自分は功徳が少ない、罰ばかり出る」と思っている人も実は罰即利益であり、たくさん功徳をいただいていることになります。信心が強いとそのことが身でわかると思います。信心の弱い人は罰ばかりで功徳がないと思慮浅く決めつけ、やがて退転していくのです。

 たとえ今、みすぼらしい姿で信心していても、それはその人が成仏するために通らねばならない道です。苦難を避けて成仏はできない。牧口先生、戸田先生は投獄の苦しみから逃げることなく大難に向かっていかれた・・それによって仏の生命を覚知されたのです。いわんや私たちの苦悩はそれに比べれば易しいものだと言えます。どんな苦悩に遭遇しようとも、それらは願兼於業であり、妙法を証明するための宿業(方便)だと先生は指導されています。

 そのことを確信できたとき、悩みは苦しく厭うものから、自分の一生成仏になくてはならないありがたいものへと変貌します。だからどんな悩みもこの信心で乗り越えていける。粘り強く信心に励んでいけば、必ず宿命が転換できる時がやってくるのです。それまでは辛抱もいれば忍耐も必要です。「魔王の試練」と心得て、真面目にしぶとくやる事だと思います。その人こそが勝利を勝ち取る権利を持ち、仏となる人に違いありません。

 「今に見てろ!」と歯をくいしばって、信心を今以上に強くしていく・・・それが一番です。そして何があろうと腐らず嘆かず、胸を張って生きていく。宿命を転換した晴れやかな自分の姿を心に描き、水の流れるごとく日々の修行を続けていく。それが秘妙方便を深く理解した人の立派な信心の姿なのだと思います。





プロフィール

王者の剣

Author:王者の剣
 一創価学会員です。池田大作先生の「法華経の智慧」(聖教新聞社)に学んでいます。記事はあくまで未熟な一会員の思索であり、自分のための「研鑽ノート」といったものです。そのことをご理解いただきお読みいただければと思います。

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